「ふくさで清める」ことと学びの深さについて
おしまいのときに帛紗を使うのは分かります。けど、なんでお茶を出す前にも帛紗で拭くんですか?
茶道に初めて触れる方が、お点前を見てそうおっしゃいました。
講師とはありがたい立場で、教えながら自分も学ぶことができます。
今月はテキストに帛紗についてまとめていたのでちょうど良く、私たちは帛紗で「何」を清めているのかという話ができました。
9月9日は重陽の節句で、菊のお菓子をいただき、着せ綿についての話をし、陰陽について学んだかと思います。
9は奇数最大の数で、陽。
これが重なる9月9日は陽の気が一番大きくなる日です。九が苦につながるから不吉というのは近代になってからの通説で、もともとは良いものとしていました。
しかし世界は均衡、バランスが崩れることは避けねばなりません。
陽の気が大きくなりすぎるのをおさめるために、節句があり、いろいろな行事やしきたりができました。
さて、帛紗は正方形ではありません。
ハンカチより小さくふんわりとして扱いづらい赤色の布には、まずその大きさに意味が込められています。
たては九寸餘り 横巾は八寸八分
利休百首にもあるとおり、帛紗の大きさはこのように定められています。
九は陽の最大数。八は陰の最大数で、それを二つ重ねているこの布は気高さを帯びています。
ですから帛紗は、実際に丁寧に拭くようにして使うのですが、精神的に、ある種まじないの力をもって清めているのです。
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話変わって、有名な寓話を紹介します。
ある時、村を歩いていた旅人が石を積んでいる職人Aに出会いました。
旅人が「何をしているのですか?」と質問したところ、
Aは「石を積んでいる」と答えました。
次に、同じように石を積んでいる職人Bに出会い、
同じ質問をしてみたところ、Bはこう答えました。
「壁を造っている」と。
もう少し歩いていると、同じ仕事をしている職人Cに出会い、
同じ質問をすると、
Cは「教会を造っている」と答えました。
さらに歩を進め、4人目の同じ仕事をしている職人Dにも質問をしたところ、
Dはこう答えたのです。
「私は人の心を癒す空間を造っている」と。
A、B、C、Dはすべて、同じ石を積むという仕事をしている職人なのに、
質問に対する回答はそれぞれ異なっています。
職人Aは「石を積んでいる」という「行為のレベル」を、
職人Bは「壁を造っている」という「目的」を、
職人Cは「教会を造っている」という「大目的」を、
職人Dは「人の心を癒す空間を造っている」という「意味」を答えているのです。
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帛紗も同じことと思っています。
私たちはただの布でお道具を拭いているのではなく、高貴な布で清めていると知りました。これからのお点前は、一段美しい所作になるでしょう。帛紗をたたみ、拭く技術自体は変わらないのに、それを行う「わたし」の気持ちが変わっただけで全く別物の所作になります。
このことを「OSが更新された」というと腑に落ちます。(私は…です。皆さまはどうでしょうか)アプリ(私が帛紗をたたみ、拭く技術)は変わっていないのに、OS(私の意識)の性能が良くなったから一段と美しくなる。
これが、「分かる」ということです。
今までは分からなかったし、「分かる」はいつでも、いくらでも起こります。
こういうことの積み重ねが茶道です。楽しいですね。
OS、アプリの話は以前、夫から聞いていて記憶していたものです。先日、パブリックスピーカーでいらっしゃる山口周さんが仰っていたのを聞いて、改めて面白い観点だと思います。学びについて考えるとき分かりやすくなります。もうひとつ、コンピュータには「CPU(メモリ)」というのがあって、これは基礎体力とか、読み書きとか、そういうものに当てはまります。
家のパソコンのOSは頻繁に更新されていきます。
私たちも、学んで、自分を更新していきたいですね。
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